
初めてコーヒーが文献に現れるのは9世紀になってからである。イランの哲学者であり医学者でもあったラーズィーが、自身が見聞きした民間療法や医学知識を記した「医学集成」に、コーヒー豆を指す「ブン」とその煮汁「バンカム」について記載している。
15世紀頃、イエメンのイスラム神秘主義教団の間で夜間の修行を助ける覚醒飲料として、コーヒーは広く飲用されるようになり、16世紀までに修行のためのコーヒー飲用の習慣がエジプトまで広まった。しかし、クルアーン(コーラン)の時代(7世紀)にはコーヒーについて十分な知見がなかったのでコーヒーの摂取の是非に関するイスラム法上の規定がなく、同じ頃コーヒー飲用の宗教的な是非が大きな問題となった。多くの法学者は、その飲用はイスラム教の立場からはビドア(逸脱)であるとみなし、クルアーンで禁じられたアルコールの飲用に似た効果のあるコーヒーの飲用は、悪しきビドアとして排斥されたのである。その背景には、コーヒーを供する場所が庶民や知識人が集まる社交場となりはじめたため、それが為政者や社会に対する不平不満を語り合う場に転ずることを警戒する動機があったと言われる。しかし、完全な禁止は難しく、それほど大きな弊害もなかったので、やがて飲用しても構わないという見解が主流となってコーヒーは中東圏に広まっていった。
1516年にセリム1世がマムルーク朝を征服、イスラム世界の北方の辺境であったオスマン帝国がアラブ地域を併合すると、オスマン帝国の首都イスタンブルにまでコーヒーは持ち込まれるようになった。コーヒーはトルコ語ではアラビア語のカフワがなまってカフヴェと呼ばれた。
オスマン帝国の年代記は、翌17世紀の初頭にイスタンブルにやってきたアラブ人によって世界で初めてのコーヒー飲料を供する固定店舗が開かれたことを伝えている。このような店舗はカフヴェハーネ(直訳するとカフヴェの家、すなわち「コーヒー・ハウス」)あるいは単にカフヴェと呼ばれ、庶民や知識人が集まって語り合ったり、詩などの文学作品の朗読会を行う社交の場として広まった。オスマン帝国では19世紀に安価なインド産の茶が持ち込まれた結果、社交の場の主要な飲料の座を紅茶に譲るが、一般にトルココーヒーと呼ばれるその飲用法は家庭や喫茶店で広く行われつづけている。オスマン帝国の支配下にあったギリシャなどでも飲用法はトルコと同じである。
ヨーロッパには、地中海を渡る盛んな人の往来に乗って16世紀末には既にオスマン帝国から伝わっていった。1602年には、ローマに持ち込まれている。このときすでにcoffeeと呼ばれていたという。
ヨーロッパではコーヒーは初め健康に悪い等といわれたが、その飲用は次第に広まっていった。ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェなどにコーヒーを供する「カフェ」ないし「コーヒー・ハウス」ができ、上流階級から中流階級へと広まった。オーストリアでコーヒーが知られるのは、1683年のトルコの第2次ウィーン包囲の際にコシルツキーがトルコ軍の忘れていったコーヒー豆を発見したことに始まると言われる。この頃からコーヒーの飲用はフランスやドイツなどにも伝わり、17世紀末には各地で飲み物として定着するにいたった。
1650年には、イギリスのオックスフォードに最初のコーヒー・ハウスがオープンしている。イギリスではコーヒーがブームとなり、1700年頃には、2000軒から8000軒のコーヒー・ハウスがあったと伝えられている。コーヒー・ハウスは、上流階級の溜まり場となり、イギリス王立科学院もここから発祥したという。またコーヒー・ハウスは、女人禁制だったため、女性を中心に反対運動が発生したこともあった。後にイギリスでは茶の飲用が広まり、コーヒー・ハウスは衰退していく。
北米には、1668年に持ち込まれた。1698年にニューヨークでコーヒー・ハウスがオープンしている。アメリカ東海岸でもイギリスと同様に紅茶の飲用が主流となるが、イギリスが茶に重税を課したため、イギリスに反発(ボストン茶会事件)。代用としてコーヒーの輸入が急増。これが、アメリカのコーヒー飲用が主流となるきっかけとも言われている。
日本には、天明年間(1781年 - 1788年)頃に、長崎の出島にオランダ人が持ち込んだといわれている。1804年に記された『紅毛本草』には、「焦げ臭くて味わうに絶えず」との記載がある。本格的に輸入されるようになったのは、江戸時代末期の開国を待たねばならなかった。開国後は、横浜の西洋人商館で少量が輸入されるようになった。
日本で最初のコーヒー店は、1888年4月に上野に開かれた可否茶館(かひいちゃかん)だと言われる。但し、軽食やアルコール類を提供する近代的なコーヒー店が日本で広がるには、1911年に銀座に開かれたカフェ・プランタンを待たなければならない。
>>飲用史
>>栽培史